kimamanikakuの日記

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戦後1

第二次大戦後、米ソ間での対立が顕在化し、やがてそれは地球規模のものとなりました。今回は、戦後どのようにして対立が深まっていったのかを見ていきます。

1.トルーマンドクトリン


46年3月 チャーチルによる鉄のカーテン演説
47年3月 トルーマンドクトリン発表
47年6月 マーシャルプラン発表
47年9月 コミンフォルム結成

大戦で疲弊したヨーロッパは経済的に困窮し、食糧不足にも苛まれていました。イギリスやフランスでは、重要産業を国有化して国が資金援助するなど、社会主義の考え方に近い政策すら取られる状況でした。このような事情を背景として、ヨーロッパの各地では共産党が勢力を伸ばしていました。東欧地域でも親ソ的な政権がいくつかうまれました。ソ連を警戒していたトルーマンは、1947年3月に「トルーマンドクトリン」を発表します。いわゆる封じ込め政策です。ギリシャとトルコへの支援を通じてソ連を抑え込もうとしました。トルーマン自身はこの政策について次のように述べています。「これは米国外交政策の転機であったと思う。それはどこに侵略があっても、直接、間接を問わず平和が脅威を受ける場合には、米国の国防にかかわるものと見なすと宣言したのであった。」(トルーマン回顧録II)。アメリカは、独立後ずっとモンロー主義(不干渉主義)に基づいた政治を行っていましたから、トルーマンドクトリンはその方針を覆したということです。
当時のギリシャとトルコについては以下に少し詳しく書きましたので、気になる方はどうぞ。知ってるよって方は次のマーシャルプランへ飛んでください。

トルコとギリシャ


 ソ連は1946年7月、トルコに対して、ダーダネルス海峡黒海の国々以外は通過できないようにすることを提案しました。つまり米国や英国は黒海から排除されるということです。東欧のギリシャでも、はびこる共産勢力に政府軍が対峙していました。トルコやギリシャにはイギリス軍が駐留していましたが、1946-47年の欧州の厳しい冬を経て燃料不足が深刻になり、イギリス軍は撤退せざるを得なくなりました。このような状況下で、共産主義の拡大を警戒するトルーマン大統領は、イギリスに代わってトルコとギリシャを軍事的・経済的に支援するという声明(トルーマンドクトリンという)を47年3月に発表したのです。彼は自伝で「ギリシャとトルコは、共産側から脅威を受けているがまだ自由の国であった。これらの自由国民は、いま自由と独立を維持するために勇敢に戦っているのである。米国は、これらの自由諸国を援助せずに放っておくわけにいかず、また放っておくべきではない。もし放っておけば、これは近東、イタリア、ドイツおよびフランスにも同様な意味をもたらす恐れがある。」(『トルーマン回顧録II』ハリー・S・トルーマン著 堀江芳孝訳 1992恒文社)と述べています。その後トルーマンは、「世界は全体主義自由主義の二つに分かれており、アメリカは前者に対抗して後者を支援する」として、冷戦の発端となる演説を行なった。これはアメリカのそれまでの孤立主義(モンロー主義)を脱する方針でした。この新しい方針は現代まで続くことになります。


2.マーシャルプラン

 

 トルーマンドクトリン発表から3ヶ月後の47年6月、アメリカの国務長官マーシャルは、ヨーロッパへ財政支援を行うと発表しました。いわゆるマーシャルプランです。このころのヨーロッパではまだ、食糧不足や経済困窮が続いており、またそのような状況で共産勢力が存在感を強めつつありました。マーシャルプランには、欧州の経済を安定させることによって共産勢力の拡大を阻止する目的がありました。これに対しソ連は「援助を受ければアメリカの言うことを聞かざるを得なくなる」として拒否し、他の東欧諸国にも参加しないように呼びかけました。アメリカ側は、表向きはヨーロッパ全体の救済措置としていましたが、先ほど述べたような事情により、実はソ連側が拒否することを望んでいました。このようにしてヨーロッパの東西分 裂が進んでいきました。
 マーシャルプランへの不参加を表明したソ連側は、47年9月にコミンフォルムを結成して同プランに対抗しました。コミンフォルムソ連ポーランドチェコスロヴァキア、フランス、イタリアなど9カ国の共産党からなる情報局で、情報の交換や活動の調整を目的としていました。その後ソ連が平和共存路線へと転換したことを受け、56年に解散しています。

 


3.東西の機構

 

 上で見たように、アメリカは1947年3月にトルーマンドクトリン、6月にマーシャルプランを発表しました。一方の東側は9月にコミンフォルムを結成して対抗しました。この時期にはなんとか条約とかなんとか機構というものが多く出てきますので、ここれはそれを少しまとめたいと思います。

 

3-1.コミンフォルム(共産党情報局)1947-1956


 コミンフォルム(Cominform、共産党情報局)とはCommunist Information Bureauの略で、Communistは共産主義者、Bureauは事務局を意味します。ちなみにソ連による組織はコミンテルンコミンフォルムコメコンの順に結成されますが、これらはあいうえお順になっています(笑)。コミンフォルムは、フルシチョフによるスターリン批判を受け1956年に解散しました。

 

3-2.コメコン(経済相互援助会議)1949-1991


 さらに東側は49年1月にコメコン(経済相互援助会議)を創設しました。これは経済的な機構で、ソ連原油やガスなどを加盟国に供給し、加盟国はそれによる生産物をソ連に返すという枠組みでした。東欧革命を経て1991年に解散。

 

 

3-3.北大西洋条約機構(NATO)1949-


 西側諸国による集団防衛を定めた軍事同盟です。1954年のパリ協定で主権を回復した西ドイツも、翌年加盟しました。

3-4.ワルシャワ条約機構(東ヨーロッパ相互援助条約)1955-1991


西ドイツが55年5月にNATOに加盟したことをきっかけとして、その直後に発足されました。東欧革命後解散しました。

 

このように、どちらの側も相手を敵対視した行動をとり、他の国も巻き込みながら対立は深まっていきました。