kimamanikakuの日記

自分が面白いと感じたことを記事にしています。

物理学史の授業にて

今期の物理学史の初回の授業に出たので、その感想を。
時間ギリギリで入室したので、やむなく最前列に座って授業を受けた。「この中にプリンキピアを読んだことがある人は?」と先生が聞いたけれども、他に誰も手を挙げなさそうだったので、「以前、ほんの少しだけ」と答えた。するとそれ以降、ときどき授業中に話を振られるようになった。その中で一つ、考えさせられたことがあったので書きます。

先生「...このように、近代科学の歴史はたかだか数百年なのである」

僕「それはプリンキピアをその原点にとるからであって、例えば古代エジプトの測量をはじめにとればもっと歴史としては長くなるのでは?(今になってよく考えたら、測量が科学といえるのか微妙な気がしてきた)」

先生「そう、その通り。しかし、プリンキピアを持って近代科学の始まりとする見方は多い。それはどうしてだと思う?」

僕(考える)...どうしてだろう。

物体の衝突や惑星の運行などの力学の計算ができるようになったからか?
いや、古代文明にも日食などの計算ができるものもあったと聞いたことがある。それに、力学だけをもってして「近代科学」といえるのか。しかも、彼がプリンキピアに記した運動の三法則は、いずれも彼が最初に言い出したことではなく、ガリレイホイヘンスなど、彼の前から提唱している人間がいたはずだ。

では、こういうのはどうだろう。ケプラーの法則を例にとる。万有引力の法則は、ケプラーの法則について理論的な説明を与えた。つまり、単に「惑星は楕円軌道を描く」という説明(how)だけでなく、「なぜ楕円なのか?」という理由づけ(why)まで含めて記述したのがプリンキピアである、というもの。

しかしこれもおかしいのではないかと思った。なぜなら万有引力の法則に対しては合理的説明が与えられないからだ。確かに、万有引力の法則を仮定すればケプラーの法則を導く(つまりhowだけでなくwhyも説明する)ことはできる。しかし万有引力の法則についてはhowだけでwhyが欠けているから、結局本質的に何も変わっていない。

ここで、哲学サークルの先輩が以前「科学も一種の宗教なんだよ」と言っていたことを思い出した。これについてはまた記事を改めて考えをまとめようと思う。